生きるためにあなたがなにをしているのか、私には興味がありません。
それよりもあなたがなにに心を痛め、
心の欲するものをかなえようと望んでいるのかが知りたいです。

あなたが何歳なのか、私には興味がありません。
それよりもあなたが危険をかえりみず愛し、夢を見、
人生という冒険を歩んでいるのかを知りたいです。

どんな人と付き合っていたのか、私には興味がありません。
それよりも胸の悲しみの中心にあなたが手を触れたのかを知りたいのです。
人生の痛みを乗りこえてたちあがったのか、それとも
痛みに堪えかねて打ちひしがれてしまったのかを。

私たちふたりの痛みを胸にあなたが過ごせるかを知りたい。
痛みを隠そうとせず、わすれようともつくろおうともせずに。

あなたが話して聞かせてくれることが本当なのか、
私には興味がありません。
それよりも人のことを考えずに本当の自分になれるのかが
知りたいのです。 裏切りの告発を恐れることも、
自分の魂を裏切ることもなく。

あなたが本当に信頼できるような
真心をもてるのか、私は知りたいのです。

毎日楽しいことばかりでなくとも
あなたがそこに美しさを見いだしていけるのか
私は知りたい。 そして、人生そのものから
力を得ていけるかどうかを。
失敗をその手に抱えてあなたが生きていけるのか、
私は知りたい。

あなたがどこに住んでいようと、私には興味がありません。
あなたがいくらもっているかにも。
それよりも苦しみと落胆の夜を超え、
骨の髄までうちひしがれても
この炎の中心に私と一緒にひるまずに立っていてれるのか、
私は知りたいのです。

あなたがひとりきりで時間を過ごしながら
空虚な瞬間の中にいるもうひとりのあなたを
きちんと愛していけるのか、私は知りたいのです。

                千賀子へ そして僕自身へ

  これは、
 『60歳のラブレター 』 という本のなかの1ページです。
夫から妻へ


幼くして両親と縁薄き私は、全くの他人様の養子として育てられました。
すでにもの心ついていた為、養父母の前では精一杯「良い子」を演じたものの、
何かにつけて遠慮をしていると映っていた。幼いなりに、育ててもらっている、
施しを受けているのだという思いにに苛まれ、やがて小さな心はサボテンみたいになりました。
「損な奴やなあ」と 揶揄(やゆ)されもしたが、自分なりに納得していた風がありました。
長じて後もサボテンは変わらず、時に折角の好意を無にしてしまい、
後悔することもすくなくなかったのです。
そんな私が貴女に巡り合いました。その日、私のなにげない心遣いに対して
「ありがとう」という一言がついていました。そしてそれはいろんな場面でいつも当たり前のことなんだと気づいた時、棘(とげ)だらけのこころはつるりと一皮剥けたのです。
以来、家族が増えるにつれても「ありがとう」と日々自然に交わされるのが、
とても嬉しく思いました。
あの日から二十八年、私は貴女の「ありがとう」が聞きたくてずっと側にいるのです。
おかげさまで、どんな些細な好意にいも自然に「あいがとう」と言えるようになりました。
そして、今、本当の素直な気持で言えます。
心を込めてありがとう、貴女に出会えてよかった。




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